都と鄙
店主の大好きな司馬遼太郎の受け売りになるが、わが国は約150年ほど前までは、地方分権のすすんだ、封建制の国であった。今年の大河ドラマ「晴天を衝け」ではいまちょうど大政奉還前夜だが、幕末の尊王攘夷運動のなか、欧米列強は早くから徳川幕府は日本政府ではなく、全国各地の大名同盟三百余候の盟主にすぎないと見抜いていた。
江戸時代は250年ものあいだ、平和な世の中がつづいたおかげで世界でもまれにみる学問、文化の栄えた世の中であった。士農工商という身分制度がありながらも、欧州の身分制度にくらべれば、相当に目の粗いもので、並みより少し優れた記憶力と多少の忍耐力があれば、身分上昇の可能性はあった。
各藩も家臣の学問には相当力を入れており、競って藩校を設立し、日本各地から有名な学問の士をお抱えにし、教育水準向上に努めていた。江戸の中期以降、諸藩における学問や文化はそれこそ百花繚乱というにふさわしい状況で、〇〇といえば〇〇藩の何某といった状況であった。つまり地方の時代であったといえる。
西洋近代化の推進
倒幕後、維新政府はわが国がシナのような欧米列強の植民地化から逃れる唯一の道は、西洋文明を1日も早く移植し、近代化した国家を建設することと考えた。当時、貿易を行うにしても売るものは生糸しかなく、日本にあった唯一の資産は高い教育水準の人材のみであった。
当時の識字率はおそらく世界一であったであろうという。武士階級はいうにおよばず、農家の次男、三男でも読み書きそろばんができなければ、商家に丁稚に入っても番頭にはなれず、船乗りになっても船頭にはなれないといい、武士階級以外の身分でもみな寺子屋に通っていた。
明治政府が西洋文明を早く効率的に移植するためにとった方法は、首都東京に西洋文明の受け皿ともいえる唯一の大学を設置し、そこへ海外から教授陣を高額の俸給で招聘し人材育成をさせ、外国人のお雇い教授を順次日本人に置き換えるという作戦だった。
東京の大学で日本人の学者を育成し、全国に学問や技術を配信していくという、司馬遼太郎いわく「文明の配電盤」として機能させたのだ。この仕組みは「早く効率的に西洋文明を移植する」という目的にはフィットし、わが国は近代化に成功した。一方で学問だけでなく、経済や文化も含め東京への一極集中をも、もたらしたのであった。
結果的に地方は衰退していく。とにかくなにをやるにも東京でなければ、という雰囲気になってしまい、都と鄙という感覚がわれわれ日本人に蔓延していくのである。
「鄙」とは、「1.都から遠く離れて文化の至らない地。いなか。かたいなか。 2.下品である。洗練されていない。いやしい。」という意味にまでなっている。文字にしてみるとかなり刺激的な表現ではあるものの、店主も含めわたしたちのどこかにこれに似たような感覚はないだろうか。
第4次産業革命
今回のコロナ禍は人々にたいへんな災いとともに、時代を回転させるきっかけを与えてくれた。技術的、物理的にはすでに可能であった遠隔地間のコミュニケーションを一気に加速させた。誰もが対面の方がいいに決まっているコミュニケーションのうち、かなりの部分がオンラインでも支障がないということを気づかされた。
最後までネックになるであろうと思われていた官公庁が、思いもよらないスピードでデジタル化に舵を切り始めている。この流れは2つの意味を持っていると考えられる。一つは首都圏への一極集中によるコスト低減であり、もう一つはリスクの分散である。
先日の夕方、品川の住宅地で起きた火災のTV中継を見たが、住宅の屋根が道路が見えないほどに密集していた。このせまい土地と住宅にいったいいくらのコストをかけているのだろうか。
日本はむかしから自然災害の多い場所である。温帯モンスーン気候であり、プレートの境界に位置することから、風水害や地震は定期的に起きることが必須なのだ。温暖化がすすみ今後ますます被害が大きくなることも想定の範囲内であり、これら事実を直視して国づくりをしていかなければならない。
日本人は都合の悪い現実に出会うとそれをスルーし、都合のいいように解釈をしてしまう癖がある。福島の原発がいい例である。いまのこの機運をのがさすに首都圏への一極集中のリスクと本気で向き合うべきだし、われわれ企業もBCPの観点だけではなく、テクノロジーを使いこなし、どのようなロケーションでビジネスを展開し、真に幸せな働き方の実現を目指すときではないか。
都と鄙の問題は、その先に解があるように思う。