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人事屋修行記(第185話)

自社健保

転職した化学メーカーは自社健保を持っていた。この規模でさらに親会社からスピンアウトしたタイミングで自社健保に切り替えたことに当時はとてもおどろいた。

 

健保は政府管掌(いわゆる協会けんぽ)と組合管掌健保に大別される。

 

昔は福利厚生施策の一環として自社健保を設立し、組合員の保険料率を低く抑えたり、独自の給付や健康増進施策などを実施し、差別化をはかった。

 

しかしバブル崩壊後は、医療費高騰や組合員の平均年齢の上昇、特例退職者医療制度などによる財政悪化などにより、自社健保のうまみが喪失していった。

 

さらに後期高齢者医療制度がスタートし、各健保に対し拠出金を課したため、赤字に転落する健保が続出。健保を解散し、政府管掌に切り替える企業がかなり出てきた。そんななかで、自社健保をあらたに設立していたのだ。

 

新卒で入社した自動車部品メーカーでは、系列との合併前は、自社健保と自社厚生年金基金を持っていた。1990年代の話なので、その後の環境変化のなかどうなっていたかわからないが、合併により、ほかの2社は親会社の健保、基金に加入していたので、それぞれ吸収されることとなり、なくなっていた。

 

 

なので、前述の健保の財政悪化による解散や、基金代行返上について、自ら手を動かすようなことは経験しなくて済んだ。ちなみに親会社の健保はそのまま存続していたが、基金代行返上を行った。

 

店主も人事の部長職であったため、健保の代議員という仕事が回ってきた。仕事といっても年に数回代議員会に出席し、議案の可否に投票するだけであった。

 

健保組合というのは、あたり前の話だが、規模の大小に関わらず、組織運営に関するさまざまな事項、たとえば予算策定や決算、代議員会の開催や議事録の作成、保管など法定事項はきちんと実施して形式要件をととのえなければならない。その手間は規模が小さいほど相対的に負担が増すのである。

 

当時の健保は元人事の管理職クラスが事務長をつとめ、そのほかに事務担当のスタッフが2名、さらに保健師1名という4名体制で運営していた。約千五百名程度の組合員に対し、この人数である。その運営はかなりきびしいといっていい。

 

それでも自社健保の保険証が発行されているということは、社員としては大手企業に勤めているような感覚を持つのである。会社に対するブランド力向上やそれにともなうインセンティブ効果は結構なものがある。

 

一方で費用対効果という観点からすると、かなり疑問が出てくる可能性は否定できない。組合員の年齢構成などからくる、医療費給付と保険料収入の収支にもよるが、手間と費用をかけただけの効果があるか、というシビアな見方も必要となってくる。

 

そんなことをあらためて考えさせられた自社健保であった。