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IVYおじさんの創業日誌

終戦記念日

8月に入り暑さのピークがやってきている。この6日広島、8日長崎、そして15日の終戦記念日と太平洋戦争における重要な日がたて続けにやってくるこの猛暑の時期、毎年恒例となっているルーティーンがある。

 

店主は作家司馬遼太郎のファンである。小説は文庫本として発売されているものはすべて1回以上は読んでいる。そして小説より好きなエッセイについてもすべて読破し、あとは対談集を数冊残すのみである。

 

エッセイのなかでもっとも気に入っているもののなかに、「歴史と視点-私の雑記帳-」という一冊がある。それぞれ書かれた年代もテーマもバラバラなエッセイだが、権力とは、日本人とは、といったような系統でくくって作品を集め、文庫にしたものである。

 

 

その中で司馬さんの太平洋戦争の従軍経験をとおして、そもそもどう考えても勝つ見込みのない戦争をはじめてしまっり、国力のなさを精神力でカバーしようという、まったく合理的精神に欠けた日本国指導部のおろかさを痛烈なユーモアをまじえて批判している文章が4つ、約百ページにわたり収録されている。

 

店主はわが国にとって太平洋戦争とは、いったいなんだったのか?という問いを、この暑い時期に考えるための題材として、毎年この時期、エッセイを手に取るのである。

 

ネタバレにはなるが、少し内容を紹介したい。4本のエッセイはそれぞれ、「大正生まれの『故老』」、「戦車・この憂鬱な乗物」、「戦車の壁の中で」そして「石鳥居の垢」という題名で書かれている。

 

「大正生まれの『故老』」では、グアムの密林に25年ものあいだかくれて一人で戦争をずっと続けていた横井さんの話から戦時中に刊行された「戦陣訓」を取り上げ、戦略なき戦争の本質を突いている。

 

「戦車・この憂鬱な乗物」、「戦車の壁の中で」では、日本の戦車や軍事技術に対する陸軍幹部の合理的精神の欠如を戦車の設計思想や運用から、とてもわかりやすく解説している。ここまでくるとフィクションではないか?と思いたくなるほどの衝撃的内容だ。

 

そして「石鳥居の垢」。司馬さんは満州の戦車第一連隊に所属していたが、終戦間近の昭和20年に本土決戦の準備として、連隊ごと栃木県佐野に配置された。そこでのエピソードが実にあの戦争そのものをあらわしている。学徒出陣で実際に従軍した経験者の実話、それも司馬遼太郎という日本の歴史に精通した人物の目を通した映像のように感じられ、とても気に入っている。

 

ある日佐野に駐屯していた司馬さんたちの連隊に、連合国が上陸して場合の作戦について、大本営から説明にきた。説明を聞いた司馬さんはふと疑問がわく。北関東から戦車連隊は首都方面に南下して所定の場所で敵を迎え撃つ作戦であったが、敵が上陸してくれば東京や横浜に住んでいる大量の市民が逆に北上し逃げてくる。それと道路上で鉢合わせになるハズだが、その想定がされていない。

 

司馬さんが質問をすると、相当な戦術家であるらしい高級官僚である軍人は、この素人くさい質問については考えもしていなかったらしく、しばらく睨みつけたあと「轢っ殺してゆけ」といい放ったというのだ。

 

また大本営の参謀将校が立てた作戦では、敵が相模湾に上陸後、厚木あたりの湿地帯に広がる深田を戦車は通ることができない、という前提となっていた。戦車はそのくらいの場所なら通るという話を聞き、実際に走るかどうかの実験を司馬さんら戦車連隊が担当した。

 

戦車が苦もなくその深田を突っ切ってしまうと、大本営から来た参謀将校たちは、当惑しきった顔をして「馬なら通れやしませんよ」と腹立たしくいったというのだ。

 

司馬さんは、「私はそれまで日本国家というものがもっと重厚な思考装置で運営されていると信じていたのだが、このとき、国家というもののたかの知れた底をのぞかされたような感じがして、こういうへんな所に来ねばよかったとわが身の不運をおもった。どうせ本土決戦で死ぬのである。死ぬ以上は、自分の死にあたいするだけの重厚さを国家の装置がもってくれていると信じたいし、そう信じて死ぬのが兵士としての幸福というものであった。」と綴っている。

 

今年もこのエッセイを読み返して、なぜあのような「国をかけものにする」愚行が起きてしまったのか、じっくりと考えてみたいと思う。