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人事屋修行記(第39話)

転勤

当時は入社2年目の1993年2月に結婚して、寮を出て多摩川沿いの1LDKマンションを借りて住んでいました。カミさんは、新卒で入った証券会社を退職して川崎にきて、半年間失業保険をもらった後、生命保険会社で営業の仕事をしていました。

 

お互い仕事が忙しく、どちらも帰宅は基本夜10時過ぎ。カミさんは営業職ということもあり、当時まだめすらしかった携帯電話を持っていましたので、会社を出るときに電話をして、駅から帰る途中の行きつけの居酒屋さんで飲みながらおちあって、食事をして一緒に帰るなんてパターンがしょっちゅうでした。

 

入社して丸4年、仕事も一通り覚え、基本的に工場の人事で担当する定例業務はだいたいカバーできるようになっていました。毎日起きるさまざまなことに対応して、それぞれを一つずつ解決していく仕事はそれなりに達成感があり、充実していたのですが、反面、新しい何か仕事がふえることはないので、同じことの繰り返しの平凡な毎日に少々飽きてきていたのも事実でした。私生活も同じであり、生活のパターンが落ち着いて決まってきていて、充実した毎日の反面、何か物足りない感を少し感じていました。

 

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当時の合併前の会社は、転勤は稀で、従業員2千人規模の会社で年に1、2名あるかないかという感じでした。ジョブローテーションを定期的に行い、人を育てていくというよりは、異動させるとコストが掛かるので、極力異動は避ける傾向で、入社以来ずっと同じ仕事を担当している人もめずらしくありませんでした。

 

そんな状況の中、人事の若手労務担当者の三角トレードの話が持ち上がりました。人事としてもジョブローテーションによる人材育成の必要性は考えていて、それでは手始めに自部門からということと、ちょうど年代とキャリアが似かよったメンバーがいて、動かしやすかったという条件がそろったことが大きかったと思います。

 

川崎工場人事の店主が宮城の工場人事へ、宮城の工場人事の2つ上の先輩が本社人事へ、本社人事の同じく2つ上の先輩が川崎工場の人事へという三角トレードでした。上司のからは、自分としては絶対反対で抜けられると困るけれど、店主の将来を考えると、よりたくさんの従業員がいる宮城の工場で経験を積むことが間違いなくプラスになるから、仕方なくOKしたと聞き、上司の気持ちにとても感激したことを覚えています。

 

引継ぎの関係から異動は玉突きとなりました。まず、店主から本社の先輩に引継ぎ、その後、店主が宮城の工場に異動して先輩から引継ぎ、その先輩が最後に本社へ異動して、本社の先輩と引継ぎをし、それぞれ半月ずつラップして1ヶ月半で終了です。

 

当時店主は、会社へは徒歩通勤だったので、特に自社製品が搭載されたクルマに乗る必要もなく、また若かったせいもあり、BMWに乗っていました。当然、宮城の工場に転勤になるとクルマ通勤ですので、泣く泣く手放してアコードのワゴンに買い換えました。

 

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社宅は3、4軒の候補の中から、仙台から電車で20分ほどの岩沼という駅近くのマンションにしました。カミさんは転勤しても働く気まんまんでしたので、JRの本数が多く、仙台まで20分という便のよさ、駅まで徒歩5分といういい物件でした。

 

宮城の工場は出張では何回も行っていましたが、正式配属後働くのは初めてです。クルマで工場のある市内に入ると、走っているホンダ車がすべてうちの従業員のような気がしてとても息の詰まる思いがして、通勤のときから緊張していました。

 

出社初日、人事のメンバーに紹介され、席を与えられて、仕事が始まりました。初日はあっという間に時間が過ぎて、気がつきと5時半になったのですが、女性メンバーは全員、5時35分にはクモの子を散らしたようにあっという間に帰ってしまいました。

 

今までいた川崎工場では人事をはじめ、どの職場でも5時半のチャイムが鳴ってすぐ帰る人がいなかったので、すごくビックリして、もしかしたら嫌われているのかとさえ思ったほどでした。

 

そんな感じで転勤初日がスタートしました。

 

つづく…