夏祭り
宮城工場のある街における店主の勤めていた会社の位置づけというのは、実に大きな存在でした。店主のいた工場の代表電話番号が「63‐1111」なのに、市役所の代表番号が「63‐2111」だったり、毎年市長の方から会社にあいさつにくるといった感じでした。
人口3万人の街に1千5百人の従業員を抱えていましたから、協力メーカーさんなんかも含めると、人口のかなりの割合の人々が何らか関係があったという感じでした。
会社の方でもその位置づけは理解をしていて、何らかの形で地域社会に貢献していこうという気遣いを、ある意味今よりもとても強く持っていました。
そんなスタンスの中、毎年お盆休みの初日には、「サマーフェスティバル」と称して、地域のみなさんを会社にお呼びして、夏祭りを開いていました。
工場の正面駐車場を会場として、中央に大きなステージを組み、午後3時ころからちびっ子向けの戦隊ショーでスタートします。その後、カラオケでのど自慢やいろいろな出し物があり、日が暮れてくるころにクライマックスの芸能人を呼んでの歌謡ショーで盛り上がりは最高潮となります。
店主がいた時期には、元ピンクレディーのミーさんや歌手の河島英五さんなんかを呼んでやっていました。その他にも模擬店や様々な出し物など、結構いろいろな演出をしてきていただいたみなさんに楽しいでもらうようにしていました。
ちなみにミーさんは、東京から新幹線でくるのに、最寄りの白石蔵王(1時間に1本しか止まりません)で降りるのはダメで、仙台経由じゃないとイヤだという人だったのを覚えています。
サマーフェスティバルの準備は、おとなりの総務係長で、この仕事に命をかけていました。彼が中心となり、総務課と文体委員会メンバーが中心となって実行委員会を立上げ、半年以上前のお正月明けから準備がスタートします。
なんといってもポイントは、歌謡ショーに誰を呼ぶかですので、早くから計画を立て、プロダクションと調整をして、スケジュールを押さえます。その後も実行委員会ベースで何度も打合せを重ね、その時期が近づいてくると、みんな本業そっちのけで準備をしていきます。
当日は、朝早くから会社に出て、丸一日さまざまな仕事をこなしながら、自分たちもお祭りを楽しみます。お祭りが終わったあとは、日が暮れていることもあり、そのまま解散で、翌日、ステージを解体しながらの後片付けと掃除といった感じです。
ですので、当時は人事や総務メンバーは夏休みの最初の2日間は毎年つぶれていました。それでも、いつもの仕事では味わうことのできない、終わったあとのやりきった感はなんともいえないものでした。
その後、経営者が変わっていく中で、「なぜ、宮城だけやるの?」という雰囲気になって取りやめになっていったのですが、地域のみなさんからは、残念だという声がずいぶん聞かれたということでした。地域貢献というのも企業にとってはステークホルダーとの関係性において大切なことなのですが。
つづく…