Cafe HOUKOKU-DOH

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人事屋修行記(第114話)

工場集約1

雇用調整の実施に見通しがついたタイミングの2009年2月、店主は管理本部長に呼び出されました。川崎と岩手の2工場を閉めて宮城の工場に集約する極秘プロジェクトをスタートするので、人事として参画して欲しいとの話でした。

 

川崎工場は、社名からもわかるように京浜工業地帯にある前々職企業の創業の地であり、当時すでに50年以上も経って老朽化も進んでいて、閉鎖、集約については、以前から何度となく噂になっては消えるということを繰り返していました。

 

「ついにきたか」入社後最初の配属が川崎工場だった店主は、川崎工場出身だということを誇りにしていました。自分を育ててくれた先輩や仲間がいる工場を転勤後もずっとホームグランドというか、心の拠り所のしてきていただけに、いろいろなことが頭の中を駆け巡りました。

 

 

最初は、なぜ店主が人事課長のときに、自分を育ててくれたホームグランドの閉鎖という仕事がまわってくるのか、というめぐり合わせの悪さを感じました。でも人事メンバーの中では誰よりも川崎工場を知っている店主だからこそしっかりとやり遂げられると考え、自分にしかできない仕事と捉え、取り組むことにしました。

 

当時の会社は国内4千5百人、そのうち川崎工場には5百人が勤務していました。他の拠点は、工場と研究所が別々の拠点でしたが、ここは開発、製造、販売とすべての機能がそろっていて、一つの独立した企業として活動できる体制を備えていました。

 

宮城の工場は、後発で主にホンダ向け製品を作っていたので、管理手法なども進んでいたのに対し、川崎工場はその他メーカー向けを手がけ、昔ながらの手作業での管理も多く、全社統一のシステム展開時などにはいつもネックになっていました。

 

 

そのような成り立ちやロケーションからか、川崎工場メンバーはとても一体感がある一方、宮城の工場とは仲がよくなく、何かというとお互いに反発しあって、仕事がうまく進まないということもよく聞こえてきました。

 

生産本部が提示してきた工場移転計画によると、2009年の夏期連休中に生産設備を移管、その後10月をメドに開発その他間接部門が移転するものでした。一番の大所帯である製造メンバーが異動するまで、半年間しかありません。

 

さっそく工場の移転計画をベースに人事としての社員を焦点とした、 TO DOリストを洗い出し、それにスケジュールを引いていきました。社内外への発表は決算発表と合わせて4月下旬とされていて、ゴールデンウイーク前に社員への説明、連休明けに転勤の意思確認、住居探し、転勤手続きとなり、8月には引越し完了しなければなりません。

 

 

内容が内容だけに、この大掛かりな計画を誰とも相談せず、一人で作り上げていかなければなりません。店主の工数計算や見通しがあまかったりすると、いざプロジェクトが動き出してから大混乱になるので、このときほど、計画表を作成した後に、何度も項目の洗い出しにモレはないか、工数計算に無理はないかと繰り返しチェックしたことはありませんでした。

 

胃が痛くなる思いで計画表を完成させ、生産本部の移転、集約計画と合わせて役員会へ提案し、承認されたのは、3月の初旬でした。ここから約2ヶ月、社内外への発表ならびにその後に予定される怒涛の作業に向け、極秘プロジェクトはごく限られたメンバーで静かに進行してしていきました。

 

つづく…