制服の功罪
日本人は制服が大好きな国民である。幼稚園からスタートし、義務教育、高等学校まで公立の小学校をのぞけば、制服がある学校が主流派である。
学校側がなんらかの理由で制服を採用しているのだろうが、その制服を変えると偏差値が変わるという。みんなに支持される制服にすると、その学校の人気があがるのである。ようするに生徒側も制服を着たいのである。
このような志向は社会人になってからも続く場合がある。女性の事務服が典型だと思うが、あの事務服がないと困るといわれたことがある。
会社員時代、もはや時代に合わないと思い、東京のオフィスにある本社事業所の女性用事務服を廃止しようとしたところ、社員から困るという話があがったのである。
店主としては、制服などを着るより、好きな服装で働きたいであろうと純粋に考えて提案したのに、そのような声を聞きとてもおどろいた。
学校教育
戦後続いてきたわが国の教育システムや価値観は、20世紀に世界を席巻したモノづくりシステムに合致していたと最近読んだ本の著者が語っていた。
日本のモノづくりにおける真骨頂は、高品質で安価な工業製品を大量に作り消費者に届けることであり、その際に重要視されるのは、「バラつきをなくす」「標準化」などである。
思考停止
服装という衣食住のひとつを構成する「何を着るか」というテーマについて、幼いころからの教育により、あたりまえのように制服を着せられ、その結果、制服が心地よく、着ていないと集団のなかで落ち着かないようになってしまっている人々が少数ではないということが起きているのだ。
制服をだれかに決めてもらって、それを身につけていれば最低限文句をいわれることはないし、カッコよさもカッコ悪さも含め、その人のセンスという個性は表出せず、面倒なことは起こらない。
なにを身につければいいのか考えなくていいのでラクなのだ。制服の着用を無批判に受け入れるどころか、積極的に支持している。思考停止を選択している。
TPO
オフィスのカジュアル化がすすんできたとはいえ、人出が戻った都内の通勤時間帯では、圧倒的に制服のごとくスーツを身につけている割合が多く、女性の事務服もまだまだ見かける。
これからカジュアル化がすすむのは、時代の流れとして必然の方向性である。教育の現場でも製造業からあたらしい産業に移行するためにも、制服という服装やTPOを考える力を養うようにシフトしていかないと、時代が要求する人材が育たないのではないか。
なにを着るかを毎日考えるか、考えないかを10数年続けることによる考える力の差はかなりのものになると思う。TPOを通じて考える力をトレーニングする発想があってもイイのではないだろうか。