ネットでつながる時代の本質
先日、クライアント企業を訪問したときのこと。打ち合わせが終わり、若手社員の方々と雑談する機会があった。話の流れで就職活動の話題になったのだが、そこで店主は現代ならではの価値観に触れ、少なからず衝撃を受けた。
雑談していた2人の社員は、会社選びの際に企業の口コミサイトをかなり熱心に読み込んだという。驚いたのは、そのうちのひとりが、いわゆるリファラル採用、つまり社員の紹介で入社したにもかかわらず、事前に口コミをくまなくチェックしていたことだ。「知人からの紹介とはいえ、実際に働いている人たちの生の声は気になりますから」と彼は笑った。
SNSネイティブと呼ばれる世代にとって、これはあたり前の行動様式なのかもしれない。しかし、この出来事は、情報と信頼のあり方が根底から変わってしまったという事実を、改めて突きつけてきた。
店主が社会に出た頃、情報というのは基本的に「一対多」で流れるものだった。新聞やテレビといったマスメディアが取材、編集し、世の中に向けて発信する。受け手である我々は、その情報をありがたく享受する。そこには情報の非対称性があり、「知っていること」自体に希少価値があった。

もちろん、当時も口コミは存在した。しかし、それはあくまでアナログな世界での話だ。友人から友人へ、近所から近所へ、と顔の見える範囲で伝言ゲームのように広がっていく。その伝達範囲とスピードには、物理的な限界があった。一個人の声が、社会全体を動かすほどの力を持つことはほとんどなかったのだ。
ところが、インターネットの出現がこの構造を根底から覆した。誰もがブラウザを開けば、世界中のウェブサイトにアクセスし、膨大な情報を手に入れられるようになった。知の独占は終わりを告げたのだ。
インターネットの普及は、情報の流れをさらに劇的に変えた。とくにSNSというプラットフォームの登場は、情報の流れを「一対多」から「多対多」へと完全に転換させた。誰もが、コストをかけずに情報の発信者になれる時代が到来したのである。
しかし、この変化には大きな課題も伴った。ネット黎明期から常に指摘されてきたのが、そこに流れる情報の「質」の問題だ。誰もが自由に発信できるということは、裏を返せば、その内容が真実であるという保証はどこにもないということ。デマや誹謗中傷、質の低い情報が溢れかえる危険性と常に隣り合わせだった。
この課題に対するひとつの答えが、「レーティング(評価)」という仕組みだった。ネット上のどこの誰とも知れない個人や、利用したことのないサービスに対して、利用したユーザーが星の数やコメントで「お墨付き」を与える。このシンプルな仕組みによって、質の悪い情報やサービスは淘汰され、信頼できるものが可視化されるようになった。わたしたちは、見知らぬ他人の評価を頼りに、安心してレストランを選び、ホテルを予約し、商品を購入できるようになったのだ。
身近な例で言えば、フリマサイトが分かりやすい。あれは元をたどれば、雑誌の片隅にあった「売ります・買います」のコーナーと同じだ。それがインターネットという媒介を得て全国の個人と個人を結びつけ、さらにレーティングという信頼の担保装置を組み合わせることで、巨大な市場へと成長した。知らない人同士を結びつけ、安全なコミュニケーションを可能にする。これこそが、ネットがもたらした本質的な価値なのだろう。
クライアント先での、あの何気ない会話。それは、会社という大きな組織ですら、もはや個人による評価の集合体によって判断される時代になったという、象徴的な出来事だった。発信する側としても、受け取る側としても、この口コミやレーティングという新たな信頼のかたちに、もっと真剣に向き合わなければならない。そんなことを改めて痛感させられた一日だった。